絵画の自意識について
もう、学生時代の頭とは遠ざかってしまったし、今更本を読んでも分かんないかなーと思いつつも、ちょっと読み返すと当時の記憶と相まって、いろんなことを考えた。
きっかけはまぎれもなくこないだ行ったポスタートリエンナーレなのだけど。
そういえば、前にこんなことも言っていましたか、でも、今回考えているのはもうちょっと別のこと。
『絵画の自意識』はバロック時代の、しかも北方を取り扱っていたら必ず読んでいるんじゃないかってほど、おそらく有名な本、じゃないのかな???と思っているのですが。自信はない。
絵画は自らが「絵画である」という自意識を持っていった、とそれを作品と年代を通して説いた本、です。(少なくとも私はそう読んだ)
なんのこっちゃい、ですが。人間があるとき自分を「人間」だと自覚するように、絵画にとってもそれは必然に起こりうることだったということなんだと思う。
じゃあ、絵画が絵画である自意識を持つとどうなるのか?
最終的にはこうなる。《裏返しのタブロー》by. Cornelis Norbertus Gysbrechts
ただのカンバスの裏側じゃん、で、まさにそれなんですが、ただし、これは描かれた「絵」です。久しぶりにカラーで見ると確かにびっくりだ。トロンプルイユ、だまし絵です。「描かれるべきものはすべて描いた」という意味を負っているのだと本には書いてあったかな。
ちなみに、研修旅行の写真をまとめたアルバムを教授にプレゼントしたとき、そのお礼として受け取った絵葉書がこの絵でした。
だので、なんとなくあたしにとっては意味深い作品の一つ。こういうウィットさ、大好きですね。
で、これが描かれたのが17世紀。その時点で、絵画は、タブローは(この言葉の意味の使い分けも、未だ私には理解できない。絵画>タブローの関係ではあるのかもしれないけど。なんか???である)、どこかよく分からないけどひとつの頂点にたどり着いてしまった。だからそのあとの絵画が同じ道を歩まず、時を超え現在になって福田繁雄さんのポスターに取り込まれてみたり、という方法において見直される。
写真が発達してしまった現在、絵画は写実や物事の再現性に、重きを置けなくなってきたんだろうな、と思う。
その写真だって、とっくに自意識を確立してしまった感がある。(わたしはそれが良いか悪いかを言いたいのではなくて、そういう流れをたどるものなんだな~と思っているだけです)。
あーなんか、話がまたそれてきた気がする。
ようするに、こないだたくさんのポスターを見た時、ポスターが「私はポスターである」という自意識を《裏返しのタブロー》のような形で、極めつけに表現したら、それはどんなものなんだろうなあ、と思ってみただけ。
これまで見た中に、それはあったような、なかったような。「ポスター」という「広告」である以上、自意識あってからの始まりで、それを極めつける、というのはありえないことなのかなあ、とも考えてみたり。
それから、私が私である自意識を持った上に作られる何かっていうのは、おぼろげにも、どんな形のものだろうなあ、と思ってみたりとか。(たぶん生きざまとか、暮らしてきた軌跡とか、そういうもので、これといった形あるものにならないのかもしれないけど)
何か一つ、そういうものがあればいいなあ、と思い進む日々であります。
ああ、もうちょっと絵について語りたかったですが。
おなか減ったので、ご飯買いに行ってきます。