理解されないんだとずっと思っていた
自分の中にあるこだわりとか、行動の意味とか言動とか。
自分でもよくわからないようなものを、誰かが理解してくれるだなんて、
理解しようとしてくれるなんて、全く思ってなかった。
相手のことを理解しなくたって、コミュニケーションはある程度成り立つし、
踏み込めば同じほど、自分の中身も見せることになるから、
頑張らない範囲の中で生活していくことは案外可能で。
面倒なプロセスを踏むより、表面的に、周囲を不快にしないように、
ニコニコと暮らしていくので仕方ないかなあ、と思っていたのは事実だし。
その反面、自分の内面の吐き出し口に、かけらやブログがあって、
最近じゃTwitterなんて便利なものまであって。
今何を思っていたかを書き散らしながら、自分の足跡を残した気になって安心する。
それを誰かにみられるのも、伝えるのも、必要条件ではなくて、
いつかどこかで誰かがみて、多少の共感を持ってくれれば、
それがこちらに伝わらなくても、それでいいと思ってた。
考え過ぎで生きづらいのも性分で、それを知ってくれている人は何人もいたけど、
今思えば何とかしたいと思ってくれてたのかもしれないけど、
多分どこかで関わられるのを拒んでいて=面倒だと思われたくなくて。
All or Nothing と思っていたから、完全に理解されるわけじゃないなら、
中途半端に知られるのも耐えられないな、と感じている自分を分かっていたけど。
そうでもないんじゃないかと説得するのはサボっていて。
ただふと最近、そういうものを変えられるんじゃないかと、結構積極的な可能性を、
きっかけを得て、心の輪郭を探る作業をしていた。
満たしていくことは無理じゃないんだって気づいただけでも、
それを自覚できただけでも結構衝撃的で。
人によってはこだわりを変えることだって可能なんだなと思えた。
ただ結局譲れないこともはっきりしてきて。
どうしようもない気分屋だとか、切り替えが下手だとか、わがままだし。
自分のことを猫ネコと表現してきたけど、ほんとそうだなあと思い知ることもあって。
でも、実は相手しだいで、本当は首輪つけられて飼われるもの良しとするんじゃないかって、
思ったり.....いや、やっぱり無理だな。
そんな気ままな生活、ネコだから許されるけど、人間だと無理だよね、と苦笑している。
それを評して、昔の友達は、甘えるなって叱ってくれたのかなあ。
相変わらずでごめんねと、笑うけど。
そんな猫の言い訳は、大学までの友人を除けば、社会人になってから理解されるものじゃないと
思っていた。思い込んでいた。そうでもないことが分かって嬉しいし、感謝もしている。
きちんと努力も忘れずにな、と戒めつつ。
Monthly 2012.06
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