遺すために出来ることを考えてみた

この土日、橋の会の民話劇場の会場設営を手伝ってきた。一昨年に続き母が美術を頼まれていたからだ。
よっぼど間が合わないのか、一昨年と同じく寝不足で設営手伝いに向かうことになってしまった。
舞台美術の話は置いておいて。民話の話。人は言うに及ばず、狐やタヌキ、カッパに大男、時には荒唐無稽と思われるストーリーだってある。けれどそれらは間違いなく、大昔から語り継がれ民族の魂にずっと寄り添ってきたもの。遠い祖先が日々の暮らしの教訓や戒めをそっと織り交ぜて伝えてきたもの。
紙に書かれることはなく、ずっと口伝で伝えられてきた。つまりそれは、聞くものがいなければ伝わらないこと、話すものがいなくなれば失われてしまうもの。
声を記録し保存すればそれは遺すことになるのか、紙に書いて本にすれば遺すことになるのか。でも、出来るなら、記録ではなく人々の記憶の中にこそあるべきで。ハードディスクや紙の上では意味がない。

あとかくしの雪
雪原の中を旅の僧が歩んで行く。もう何軒も宿を断られて、疲れきって歩んでいる。しかし今年はひどい飢饉で、みなその日食べるものもあるか無いかと言う状態だから無理もない。やがて僧は一件の灯りを見つける。また断られるかも知れない、そう思いながらも僧はすがるように戸を叩く。すると家のじいさまは優しく僧を迎え入れ、本当は粥のいっぱいでも出してあげたいのだが、と言いながら温かい湯を飲ませてくれた。凍えて疲れきっていた僧はありがたそうにそれを飲んでいる。不憫に思ったじいさま、心配するばあさまを残して、夜の雪原を長者の家に向かう。「これは盗むんじゃない、きっとお返ししますから、神様もちょっと目をつぶっていてくだせぇ」蔵の軒先から大根を一本盗んできて、家に戻り僧のために大根焼を振る舞った。人助けは大切だが、ばあさまは、じいさまが雪に残した足跡から盗みのことが知れたら、年老いた夫婦二人、この村から追い出されて、どうやって生きていったら良いのか・・・。その夜、晴れていた空から急に雪が降り始めた。じいさまの足跡を隠すように、のんのん、のんのん、降り続けた。

ささぎつね
少年と鉄砲の得意な父親が、地主に「借金を返すか、(自分の母をたたっていると言う)河原にすむささぎつねをしとめねば、村から出て行ってもらう」と脅され、何の罪もない、おとなしいささぎつねを探している。鉄砲の得意な父親はささぎつねを撃つことに成功するも、たまたま居合わせた女の子がそのきつねを介抱して逃がしてしまった。少年はその場に居合わせたが女の子が去年の水害で母をなくし、自分もまた生き物の命を奪うことに抵抗を感じていて、女の子の行為をとがめることなく仲良くなる。ここで話者がわらべ歌を披露。しかし、少年と父親はささぎつねをしとめることが出来なかったので村を追い出されてしまう。
そして一年が経ち、狐を憎むあまり父親は、自身が狐のようになってしまって、どんな些細な匂いからも狐を探し出せるようになった。女の子と出会ったおなじ川辺、少年はきれいな女性とともにいる女の子を発見する。しかし父親は「におうぞ、あれは狐だ」といってきれいな女性と女の子を撃ってしまった。駆け寄るとそこには、しっかりと抱き合ったささぎつねと少女の姿。
それから二度と少年と父親の姿を見たものはいない。

めしいの太鼓
雨が続き、川は溢れて堤の決壊が近い頃、村人は盲目の青年に太鼓をもたせ村に堤の決壊を知らせる役目を押し付けた。めしいの青年は村の厄介者、「川の水が堤を超えたら太鼓を鳴らせ」と堤の上に置き去りにする。初めて自分が村の役に立つと、青年は張り切る。誰も助けにきてくれないことなど知らないまま、言われた通り、決壊を知らす太鼓を叩き続けた。川の流れにもまれてもなお。

小豆まんまの唄
不作が続く中、体の弱い娘に、何か食べさせてやりたいと、父親は長者の家に盗みに入り、娘が望んだ「小豆まんま」を食べさせてやる。それが聞いたのか娘はすっかり元気になった。長者の家に盗みに入ったものを捕まえようとしていた役人たちは、すっかり手がかりのないまま手をこまねいていたが、ふと通りかかった家の前で少女が「小豆まんまを食べた〜」とわらべ歌を歌いながら鞠をついているのを見て不審におもい、父親を捉えてしまった。捉えられた父親は、橋を守るための人柱にされてしまう。それから娘は一言もしゃべらなくなった。それから月日が経ち、娘が少女から美しい女性に成長した時のこと。娘の目の前でキジが鳴き、そのキジが猟師の鉄砲に撃たれた。娘はそのキジを抱え、「ああ、お前も一声泣いたばかりに殺されてしまったのだな。私も、余計なことを言ったばかりに父を死なせてしまった」娘がしゃべったことに驚く猟師を残し、娘はキジを抱えてどこかに消え、二度とその姿を見るものはいなかった。

花咲き山
一面の美しい花畑の前に少女は立っている。(話者は聞き手にこの少女になった気分で話を聞いてほしいと言う)見たこともないような花を眺めていた少女に山姥が声をかけた。少女が祭りのためにごちそうを用意しようと山の奥まで山菜を探しにきたことを言い当てた山姥に、花畑の由来を少女は尋ねる。山姥はこれは人の優しい心があると咲くのだと少女に教えた。「例えばこの赤いきれいな花は、お前が咲かせたんだよ」村祭りに妹が新しい赤いベベが欲しいと言ったとき、少女は私の分は良いから、妹に買ってあげてと母に告げた。貧しいから、二人分の着物を買うことは出来ない、母が困ると知っていたから妹に譲った、その優しい心が赤い花となったのだと。そして露をたたえた青い花は、双子で生まれた赤ん坊の兄ちゃんがぐっと我慢して弟に母の乳を先に譲って、兄ちゃんだからと涙を飲んでこらえていたから咲いたのだと。そしてここにある山は、男が命をかけて何かを守った時に生まれたのだと。あっちの山はひどい火事があった時に、それを静めるため、大男が身を張ってかぶさって出来たのだと。家に帰った少女は見てきたこと聞いたことを大人たちに話したが、誰も信じてはくれなかった。少女も、もう一度同じ場所に行こうと思ったが花畑も山姥にも会えなかった。けれそそれからでも少女は時折、あ、今私の花が咲いたな、と感じることがあったということ。(高木先生の語りは本当に素晴らしいものでした。私も少女になった気分で聞いていました)

昔夫婦と言うものは・・・
昔夫婦と言うものが出来たとき、連れ合う同士が背中を合わせ、どこにいても離れないものだったと言う。けれど人は「相手の顔が見たい」とおもい、どうか離ればなれにしてほしいと神様に頼み込んだ。望み通り神様は連れ合う二人を離ればなれにしたが、今度は自分の相手がどこへ行ってしまったのかわからないでとても寂しい。そうして人はもう一度神様に連れ合いと一緒にいさせてほしいと頼み込む。神様はそう言う人に愛を与えた。それによって連れ合いを捜すようにと。決めた相手でない時は出会って一緒になってもいつかは離れてしまうけれど、愛によって自分の相手に巡り会えるようにと。

人間とは、愛である。愛のない人間は人間ではない。


と、まあだいぶかいつまみましたが、こんなお話たちでした。愛のない人間は、人間ではない。守山先生の渋い声が心を打ちました。

私に出来るのは、ほんの少しでも覚えておくぐらい。それをここで少し話すぐらい。
それでも。
途切れることのないように紡ぐ糸の、ほんの少しでも助けになれば良い、な。

Monthly 2009.10

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