『呪いの時代』を読む
本の内容的なことにはあまり触れずに行こうかと思います。
というか、毎度毎度申し上げますがこの読書メモのカテゴリはメモなので、
とりたててこの本はこんなことが書いてあってだから読んでほしいですと強くおすすめしようという目的ではないので...
(中には気持ちがあふれてそうなっている記事もありますが)
面白かった、勉強になった、以上のことを書評家でもないのにあれこれ語れませんと言う気持ちもあるのですが。
言い訳がましですね? 言い訳ですもの。
後で読んだ人に「全然言ってたのと全然違うじゃん!」と怒られるのが怖いんです。
ということで今回も、内容紹介というよりは、読んだ感想を父を捕まえて長々語っていた時に
考えていたことをちょっと書き留めておきたいと思います。
この本を読んで、呪いとしてイメージしたのは、のっぺりとした顔にお札を貼られている人たちの集団で、
よくよく見れば服装とか思わせる年齢とかが違うような気もしないじゃないけど、
なんだかおぞましくて目をそらしたくなるみんな同じのわらわらした集団。
キョンシーと言ってしまうと少し別の要素が入ってしまうけれど、
到底それが入り込まないような不気味さ。
よく探したらその中に自分もいるんじゃないかと思って、ぞっとする。
呪いって、祝うとよく似た字だな、と思って、本編とは関係なさそうだけど、辞書を開いた。
これといって漢字の意味に深い繋がりは無いようだけど、兄の部分は「口」と立っている「人」を表すようです。
「祝」は祈ることや神につげるという意味もあるようで、字の成り立ちは「示」が神で人の口をもって神に交わることで、祈る言葉を言う意味だとか。
呪いも意味としては人に不幸があるように神仏に祈ることだそう。
何となく、釈然としないけれど。
なんというか、呪うほうは神様に何とかしてくれよって言う自分勝手さで、祝うは神様への感謝を告げることなのかなあ、と解釈。
大きな違いではある、と思う。
ちなみに、「儿」が人、「口」を穴に見立てたら、人を呪えば穴ふたつ、というあの格言を思い出した。
なんで口なのかなあ....。口から口に伝えて初めて呪いが成立するのかしらん。口は穴を表すこともあるけど。
で、呪いですが。丑の刻参りがポピュラーですかね。
私も呪いと聞いて真っ先にそれをイメージしたと同時に、「今どき呪いとかねえ」って、思いました。
でも、呪いとしか言い様の無いような現実が現代にある。
この本を読んでそれを納得しました。これはなるほど呪い的なのだと。
「今どき呪いとかねえ」と思う私の感覚は、おそらく多くの人が同意してくれると思う。
そんな「非科学的」なもの、って、言われちゃうと、うんうん、と思う。
そうやって、呪いを遠ざけてしまったときに、呪いへの対処も一緒に遠ざけてしまって、
でも「呪い的事象」は現代でも生きていて、蔓延している。
蔓延したのは、「呪いへの対処」も一緒に忘れてしまったからじゃないのかなって。思った。
人によって伝えられてきたもの、失ったように見えて、でも刻み込まれているような感覚。
何度か引き合いに出しているけれど、ちっとも信じていないキリスト経の聖典である、しかも印刷されてどこにでもありふれているものになっているというにも関わらず、なんとなく「聖書」を粗末に扱ったら「バチがあたるんじゃないか?」と思ってしまう感覚。もしかしたらちっとも信じていないわけでもないだけかもしれないけれど。
そういう、いつ身に付いたのかもよく分からないけど、何となく知っているようなそう教わってきたような、呪いという字にわけもなく忌避感を覚えるとか、その「感覚」の通りに、余計なフィルタをかけずに物事を取り扱うことって、大事なんかも、と思うわけでして。
本編にこういうことが書いてあります、という話ではありませんのであしからず。
あくまで私が思ったことです。
ただし本の影響もあってのことです。
呪いの話ばかりが書かれているわけではないのであしからず。
章タイトルだけでも列挙したい気持ちなのですが。
(と思ってアマゾンのレビューを見たらちょっとため息が)
レビューを見たい方は、申し訳ありませんが、検索かけてみてください。
呪いという言葉でなくとも、スターウォーズで言うところのダークサイドとかにも近いのかな、とふと思ってみたり。
こっち側にとどまっているためにはどうすれば?ということへの著者からの回答は実際に読んで考えてもらうことにして。
自分の中にある呪いをひとつひとつ解いていかねばなあと思うのでした。
Monthly 2012.04
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