金沢に行ってきました〜サイトウマコト展について

11月2日金沢に行ってきました。
なんだかめちゃくちゃ濃い一日で、まだまだ消化不良です。悪い意味でなく、何を書くか迷うってこと。
改めて街を歩くと、いろんな発見があるなあ、と思う。

さて。
サイトウマコト展です。温度の無いゼロ地点—SCENE[0]
出展されていた作品は全て「人」を描いたもの。風景描写はおそらくあくまでおまけ。とにかく人。
なんとなくそれが不自然に感じたけど、別に人ばかり描くのは変でもなんでもない。昔から人は人間ばかり描いている。人は人に興味が尽きない。
分析が好きなのかも知れない。
で。
描く技法はどういったものかちょっと分らない。近づいて見たが、さっぱり。プリントなのは確かだろう。シルクなのかなんなのか、テクスチャーがのっているような気もしたが、カンバス自体にあまり凹凸が感じられなかった(触れないしね)ような気もするけど、分らない。ただ、印刷にしても何層か重なっているようなイメージ。(白色を含めて)何も色がのっていない場所は無かったような気がするだけ。技法もオリジナルで企業秘密なのかも?でなければ真似っこなど現代ならいくらでも作れてしまうし。
で。
現代芸術には何となく拒否反応というか、否定から入ってしまう癖があるので、何とも言えないのですが。
自分の理解出来る物に当てはめてみよう。
まず、レオナルド・ダ・ヴィンチは「描いたあとを絵画から消す」ことにこだわる画法を見せていた。筆致と言うものが感じられないで、絵の具だけがそこにつけられている(絵の具を薄い層で重ねて描くから時間がかかる。レオナルドが残した絵は多くないはず)。絵画でありながら、出来る限り「絵画っぽさ」を消したかったのだろう。だから筆致を残さないようにした。
サイトウマコトさんの「画」も同じか、と言われると、そうじゃないと思う。思想も違うと思う。多分逆。「画」は遠くから離れて見たとき、印象派に似た「筆致」を感じた。描いたように見せたかった。記号とか、意味だけの「描画」。現代アートは記号に満ちている。暗号か。なんというか、他人に分らなければ分らないほど良い、みたいな。「萌え」と同じに見えてくる。分る人の間でだけ騒いで楽しい、みたいな。普遍性を、放棄している?そうじゃないのかもしれないけど。
私の好きな画家の好きな作品のひとつ、ファン・エイクの《ヘントの祭壇画》、あれを見ていると気が遠くなる。緻密。とにかく緻密。人の髪の毛さえ一本一本を虫眼鏡で見ながらほっそい筆で描いたに違いない。それぐらいみっちりきっちりした絵だ。どうしてそこまでして緻密に描く必要があったのか。それはキリストやマリアや天使を、そこに「おわしめる」ためだったんだと思う。髪の毛の一本一本まで、遠くの街の外壁窓のひとつひとつまで、「目に見えるはずのものを画面に全て描ききる」事で描いたものが「本物らしく見える」に違いない、と考えたからじゃないのかなーと思っている。

ちょっと脱線。ファン・エイクと言えばマイナーな画家だと思っていたのだが、これを書きながらCMを見ていたらたまたま出て来てめっちゃくちゃびっくりした。小学館が作った、ルネサンスの絵画を特集した本のCMだったんだけど(これで私が何の番組を見ていたか分る方はいらっしゃる?)、(これも大好きな絵!)がいきなり画面に出て来た。ルネサンス絵画を集めた本で、何故これをCMテーマに持ってくるのか。例えばB'zを紹介するのに「あなたならかまわない」から紹介しているようなもの(だから、そのたとえ分りづらい、のをあえて選んでみました)じゃん。マニアックな。レオナルドの知名度とは比べ物にならないのに・・・。

軌道修正。
ええと、あ、現実性の再現の話だった。サイトウマコトさんの「画」は、現実性と乖離しよう、させようとする意思があるように思えた。温度の無いSCENE[0]というタイトルにも現れている気がする。今この時代と言う「現実」を示すものでありながら、現実性から乖離する、乖離する事で「普遍性」をもたせて今を伝える。ここでいう「普遍性」はある意味「どうとでも捉える事が出来るもの」というものに思えてならない。
こういうのもある良いとか悪いとか言うんじゃなくて、そう見えるなあ、って話。現代美術って「私はこう感じた」で話しちゃ、だめ?
そんなこんなでございまして。ああ、絵の話をし始めると長くなるのね。
こういう感覚にはまだ追いつけないなあ、と思うばかりなのでした。おしまい。
金沢21世紀美術館:サイトウ・マコト展:SCENE [0]

Monthly 2008.11

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