つくりもの
作ることに没頭してる時は結構自由な気がしている。
久しぶりにミニドリル持ち出して貝に穴を開けて〜ってかんじで、ひとつは昨日、もうひとつはさっき作り上げた。あとから後悔したのだけど、留め金の部分、最初に作った方のようにうずまきにして仕上げればちょうどチャームのひとつのようになってきれいだったなーと。2個目の時は余計なことをしようとして失敗して、結局留め具を使うことになってしまった。
大体そう、一個目の方が上手くいくんだ。
まあ、手作りの良さは気に入らなけりゃある程度修正可能ってことだ。
別件だが、ものづくりについては、もうちょっとで価値が入れ替わるはずだ、と父と話した。ちょうどテレビでケータイに搭載する超小型モーターの開発話をしていたのがきっかけになって、これから作るべきものは、みたいな話になった。技術を高め、例えばケータイにいろんな機能を搭載したとして、それがどれほどの価値だろうか、それよりも、欲しい機能を自分で選べる方が良いのではないか、そして求めるのは人それぞれであって、必ずしも「最先端の技術」では無いのではないか?ということ。
ケータイばかりを例に挙げているが、私は今のケータイについている機能で十分だと思っているが、例えばいまのケータイが壊れたら、同じスペックのものは買えないのだ。どれもが高機能になっていて、逆に私が欲しいと思っている機能は失われている。今は「ひとつに何でも詰まっていて使いたい機能だけ使えば良い」ことが価値なのかも知れないが、「欲しいと思う機能がそろっているだけでよい」ことや、むしろ「カスタマイズしながら使いやすくして行ける」ことのほうが価値になって行くのではないか。少なくとも私はそうであって欲しい。
ソフトでもハードでも、今はとかく「多機能」でニーズに対応しているのかもしれないが、若干、うざい。特に、仕事で悩まされるので切実なのだが、イラレ・フォトショはもっと機能を削っていいから、軽くなってくれる方がよっぼどいい。マシンスペックを上げれば良いじゃないか、と言われるかも知れないが、コストもかかるし廃棄物もでる。正直「もったいない」。買うことでのエコはとりだたされるのに、捨てることのアンチエコ部分はあまりにも無視されていないか?
ええと、つまり。手作りのものが気に入らなければ直せるのは、自分の手で作ったもので壊し方も直し方も分るからである。だからメンテナンスが聞くから長く使える。そう言うことへの価値が見直されるんじゃないかな、と言うこと。
昔の道具の作りは周知のもので、直し方だって何だってみんな知ってたから長く使えた。
今はそうじゃないから、どうしたって壊れればそれまでになる。多機能のリスクはそのひとつに必要なことを集めれば、壊れた時におじゃんになってしまうこと?
どの部品も取り替え可能で良いものが出たら取り替えられたり、壊れたら直すことが出来る作り、そう言うものづくりに価値が移るんじゃないか、というか移って欲しい。ものは、売れなくなる。必ず。だってこれだけものが溢れているのに、もうこれ以上の必要を感じない。ものを作り出して売ることでしか成り立たない仕組みは近いうちに壊れざるを得ないだろう。価値転換してしまってから対応していたのでは遅いような気がしている。今のうちに考えないといけないことは多い。盛者必衰、諸行無常。変わらないものは少ない。
Monthly 2010.02
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