人を殺すということ

ちょっとだいぶ根くらいというかダークサイドな話になります。

でも、ダークサイドを見つめることって、多分、そっちに行かないためには大事なんじゃあないかと思うんです。
人にも世界にも踏み込んでは行けない領域がある。あっちとこっち。ダークサイド。
善と悪の二元論というのはあまりに単純化されすぎていて現実とは相容れないけど、でも、この二元論は、その歴史から見るに、遠く遥か昔から人の思想の奥深くにあるものだという気がする。まあ、民族によるのだろうけれど。
世界が常に昼と夜を繰り返す、そんなところから生まれている気がする。

年代的に、俺は、神戸で殺人事件を起こしたあの少年と同年代だ。当時14歳、少年への大きな反発と多少の共感を持ったのを覚えている。それで、「ああ、同じものを持っている」とたぶん、自分の中のダークサイドをぼんやりと自覚したんじゃないかな。
そして、多分同じように思ったのは俺だけじゃないと思う。
近いところで言うと秋葉原で人を殺した人も同年代だ。

最近多いと思うのは「人を殺したかった、誰でも良かった」
憎しみとかそういう感情は関係ない、ただただ「殺したかった」。
その背景にいつも見えるのは「死にたかった」という感情。
テレビでコメンテータが言っていたこと、「誰でも良いと人を殺すのは、生きているのが辛くて死にたいと思っても、自分で自分を殺す勇気がないから、人を傷つけて捕まって、自分を社会的に殺すのだ」と(ちょっとかいつまんでますが)
硫化水素の自殺はまた別の側面があるけど、あれも、他人を巻き込むという点では同じ、か。
人は人を殺す生き物なんだろう。
ダークサイドに堕ちてしまった人と、そうでない人の垣根はどこにあるんだろう。
あっち側とこっち側、二元論で分けることがそもそもの間違いなのか。誰にだってダークサイドはあって、けれど、そのふちに立つ人、その暗闇に堕ちて行く人。結果は二つに一つでも、その境界は曖昧なんだろうか。
ならば、どうして俺はこっちがわにいられるのか。抑止力になっているのは、単純に、そんなこと考えなくて済むほどには明るいところにいるから、明るいところにいたいからだと思う。
どろどろした感情がないとは言わない。でも、それに囚われるよりも、楽しいことが他にあるから、保っていられる。それは、恵まれていると言い換えることが出来るんだろう。

Monthly 2008.06

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