ケータイでネットが当たり前の世代

http://journal.mycom.co.jp/series/mobilecom/001/index.html
わからないなあ、と思うけれど。
わたしはパソコンからインターネットに触れて、ダイヤルアップで料金気にしながらネットをしていたし、夜中遅くまで叱られながらチャットしたり、ホームページつくってみたりとか、そう言うことが「常識」だったけど。
時代は変わった。

当たり前と思うことを疑ってみるのが大切、ということなので、考え直してみる。
パソコンをケータイに置き換えて。例えば使い勝手がいいのはよそのパソコンより自分のパソコン。そう考えれば、「パソコン」よりも自分の「ケータイ」の方が、何か他のツールよりも自然と「身近」で「使いやすい」と言うのはわかる。それに、パソコンよりもケータイの方が「即時性」とかリアルタイムである点は優れているし、そういうことが「ケータイでネット」ということにつながるんだろう。
パソコンで小説を読むこともあるし、それがケータイになっただけだ。
でも、もっと、何かが根本的に違う気がする。パソコンに比べてケータイの方が「何か」のボーダーがずっと低いような印象。「何か」をはっきりと捉えられないけど。
ああ、ちょっとわかった。パソコンの方が「改まった」感じなんだろうか。
ケータイで大学のレポートを書く。大学のレポートは課題で「ちゃんとしたもの」であるのに、「ケータイで書く」のは不謹慎、は言い過ぎだけど、文字数とか変換とかは置いておいて、「ちゃんと机に向かって勉強する態度で書けよ」と思うのだ。
ケータイ小説も同じ。小説は紙に書かれ、縦書きで、出版されているものというのがあたしにとっての「当たり前」。ケータイで読むコンテンツなんか「お遊び」的で二流以下、みたいな感覚がある。
でも、ケータイ小説を読む世代にとっては「本である権威」に意味がないんだろう。
ちょっと見えた気がする。そういうことかー。
やっぱりなじめないなー。
いや、理解はできないけど、ここで受け容れなきゃ先に進まない。
ちょっと抵抗感あるけどねー。
あれだ、メディアの権威が「変革」されていっている。価値基準が多くなりすぎて?メディアが「これ」と言って与えていた、そのものの価値とか権威が否定されつつあるってことだ。
そういうものの現れの一つなのかなー。

Monthly 2008.05

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